「トランスジェンダー」か「性同一性障害者」か 日本ファクトチェックセンターの表記の理由

「トランスジェンダー」か「性同一性障害者」か 日本ファクトチェックセンターの表記の理由

日本ファクトチェックセンター(以下、JFC)が公開した記事「『手術せずに性自認のみで戸籍が変更できる』は誤り【ファクトチェック】(以下、本記事)」について、「性同一性障害者とトランスジェンダーを混同している」として、文中の表記を全て「性同一性障害者」に改める訂正と謝罪を求める要請書が「女性スペースを守る諸団体と有志の連絡会(以下、連絡会)」から届きました。JFCの見解を説明いたします。

本記事と要請の内容

本記事は2023年10月25日、「性同一性障害特例法(以下、特例法)」の戸籍上の性別を変える要件について、最高裁が「意に反して身体への侵襲を受けない自由を侵害」しており、憲法13条に違反して無効という判決を出したことに関するファクトチェックです。「手術なしで戸籍変更可能になった」などの言説に対し、判決をもとに「誤り」と判定しています。

判定の根拠は、判決の内容です。特例法は性別の変更について、「必要な知識及び経験を有する二人以上の医師の一般に認められている医学的知見に基づき行う診断が一致している」という条件の上で、さらに「18歳以上であること」「現に婚姻をしていないこと」「現に未成年の子がいないこと」「生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること(生殖不能要件)」「その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること(外観要件)」という5要件を求めています。今回の判決で違憲になったのは、4つ目の生殖不能要件であり、5つ目の外観要件は「更に審理を重ねる必要がある」として、広島高裁に差し戻しています。

外観要件を満たすためには、陰茎等を取り除く手術やホルモン療法などの必要性が出てきます。拡散した言説のように「手術無しで戸籍変更が可能」「性自認だけで男性が女風呂に入れる」などということは、この判決には書かれていません。

連絡会からいただいた指摘は、本記事の中で「トランスジェンダーが戸籍上の性別を変える際に」などと記している点について、「性同一性障害者とトランスジェンダーを混同している」というものでした。

なお、連絡会のご指摘通り、最高裁の判決は特例法に関するものであり、特例法や判決に「トランスジェンダー」という文言はなく「性同一性障害者」と表記されています。

性同一性障害者とトランスジェンダーの定義

連絡会のご指摘通り、性同一性障害者とトランスジェンダーは定義が異なります。特例法第2条は「この法律において『性同一性障害者』とは、生物学的には性別が明らかであるにもかかわらず、心理的にはそれとは別の性別(以下『他の性別』という。)であるとの持続的な確信を持ち、かつ、自己を身体的及び社会的に他の性別に適合させようとする意思を有する者であって、そのことについてその診断を的確に行うために必要な知識及び経験を有する二人以上の医師の一般に認められている医学的知見に基づき行う診断が一致しているものをいう」と定義しています。

一方で、トランスジェンダーはより広い概念です。LGBTQ報道ガイドラインは「出生時に割り当てられた性別と性自認が異なる人」と解説しています。一部が重なりつつも異なる概念であるため、連絡会が懸念する混同の危険性は確かにあります。そのため、2つの定義を改めて確認した上で、JFCが混同ではなく意識的に「トランスジェンダー」という言葉を選択して本記事を書いている理由を説明します。

WHOによる「性別不合」への分類変更

世界保健機構(WHO)は2019年、国際的に統一した疾病分類(ICD)を改訂した「ICD-11」で、「精神および行動の障害」の項目から「性同一性障害(Gender Identity Disorder)」を削除し、新たに「性の健康に関する状態」という章で「性別不合(Gender Incongruence)」として再分類しました。

WHOのリプロダクティブ・ライツに関する専門家であるDr.Lale Sayはこの決定について、次のように述べています。「精神疾患から外されたのは、これが実際には精神疾患ではないということがよく理解できたからです。そのため、スティグマを減らすと同時に、必要な保健介入へのアクセスを確保するために、この病気は別の章に移されました」(BBC)

日本では特例法は2003年に成立しており、名称や条文は「性同一性障害」のままですが、科学的な知見の進歩とともに変更されたWHOと同じ方向性に向かうべきだという議論があります。

性同一性障害特例法の立法過程と裁判の内容

特例法が成立したのは2003年7月10日。6月には最高裁が「性同一性障害者」の戸籍の性別訂正を却下していました。社会的に性別を移行して暮らしている当事者は、戸籍などの証明書での性別と生活の実態が異なることで、さまざまな困難に直面します。その解決策として、当時としては非常に画期的な法律であり、特例法によって性別訂正の道が開かれました。

しかし、法案に反対する声は根強く、成立のためには高いハードルを設けざるをえなかったという背景がありました。そのため、当初から要件が厳しすぎるという批判があり、今回の裁判に繋がっています。特に身体的なリスクを背負っても手術を受けざるをえない要件が論点となりました。

判決の中でも「性同一性障害に関する医学的知見の進展 」として 、ICD-11の分類変更が取り上げられています。また、三浦守裁判官はICD-11を細かく参照し、「現在の一般的な医学的知見の下に置いて、自己の生物学的な性別による身体的な特徴に対する不快感などの症状は多様かつ個別的なもの」で、特例法2条の「自己を身体的に他の性別に適合させようとする意思」には「多様な意思が含まれるものと解される」と意見しています。

「性同一性障害」と社会の変化

2003年に戸籍の性別訂正への門戸を開いた性同一性障害特例法には、特例法施行の状況や性同一性障害者を取り巻く社会的環境の変化を勘案して必要がある場合には所要の措置を講じる規定が設けられました。実際に2008年には「現に子がいないこと」という要件が「現に未成年の子がいないこと」に変更され、門戸はさらに広がりました。

規定変更の根底にあるのが、社会状況の変化です。この20年間で、性的少数者をめぐる議論は広がってきました。その中で使用される言葉も変わってきています。

朝日、産経、毎日、読売の全国紙の記事においても、2003年の1年間で使用された言葉は性同一性障害353件、トランスジェンダー6件だったのが2022年には性同一性障害108件、トランスジェンダー310件と逆転しています。Google検索でどのような言葉が利用されているかを調べるGoogleトレンドのデータでは、2017-2018年頃からトランスジェンダーが性同一性障害を上回っています。

JFCが「トランスジェンダー」と表記した理由

JFCではこれらの要素を勘案した上で、本記事の中で「トランスジェンダーが戸籍上の性別を変える際に」などと記載しました。WHOの分類変更によって「障害」の位置付けが変わったこと、今回の裁判で問われている本質は特例法が定義する「性同一性障害者」にとどまらないものであるという判断、社会状況も変わってきている、という点です。

JFCは「性同一性障害者」という表記が間違っていると主張しているわけではありません。実際に今回の判決を受けた報道で「性同一性障害の人が戸籍上の性別を変更するのに」(読売新聞)などの表記もあります。特例法に関する裁判であるということを明確にするには、このような表記の方が良いという意見もあるでしょうし、その点において連絡会の方々の「混同である」というご指摘は重く受け止める必要があると思っています。

JFCとしては混同しているわけではなく、トランスジェンダーという表記の方が妥当であるという判断のもとでこの表記としました。よって、訂正は考えておりません。

連絡会のみなさまからのご指摘によって、このように説明する機会を持つことができました。今後とも、よろしくお願い申し上げます。


判定基準などはJFCファクトチェック指針をご参照ください。

毎週、ファクトチェック情報をまとめて届けるニュースレター登録(無料)は、上のボタンから。また、QRコード(またはこのリンク)からLINEでJFCをフォローし、気になる情報を質問すると、AIが関連性の高いJFC記事をお届けします。詳しくはこちら

もっと見る

パンデミック条約でワクチン強制接種? 繰り返し否定されている誤情報【ファクトチェック】

パンデミック条約でワクチン強制接種? 繰り返し否定されている誤情報【ファクトチェック】

感染症の世界的な流行(パンデミック)への対策を強化する「パンデミック条約」をめぐり、「ワクチンを強制接種させる」などの情報が繰り返し拡散していますが、誤りです。条文案にそうした文言はなく、世界保健機関(WHO)などが繰り返し否定しています。 検証対象 2025年4月14日、「ヤバいって WHOのパンデミック条約がもう来月採択へ。 条文の原文には 『加盟国には監視・警戒システムの強化を要請』 『加盟国はワクチンの定期接種を強化・実施する』などが記載 まさに監視・ワクチン接種強制社会への下準備」という投稿が、「『パンデミック条約』条文案を大筋合意 WHO 来月の採択を目指す」と伝えるNHKニュースの画像と共に拡散した。 4月30日現在16万を超える閲覧があり、リポストは2200以上。「WHO脱退しないとね」「憲法違反じゃないの?」といったコメントのほか「強制接種、義務化はないと思います。そんなの無理です」といった指摘もある。 検証過程 パンデミック条約とは WHO加盟国が、感染症対策を世界的に強化する目的で議論している条約。感染症が発生した際の情報共有

By 宮本聖二
フランス入国の優先レーンから日本が外された? 大使館が否定【ファクトチェック】

フランス入国の優先レーンから日本が外された? 大使館が否定【ファクトチェック】

「フランス入国の際の優先レーンから日本が外されたようだ」という情報が拡散しましたが、誤りです。2025年4月30日現在、日本は優先レーンの対象国です。 検証対象 2025年4月19日、埼玉県戸田市議・河合ゆうすけ氏が「フランスに入国する際、イミグレーションの優先レーンから日本が外されたようだ。日本のパスポートを持った中国人(帰化した人)が増えたからではないかと言われている」などと主張する投稿がXで拡散した。投稿には、フランス・パリの空港と思われる画像が添付されている。 投稿は4月30日現在、3700回以上リポストされ、表示回数は112万を超える。投稿には「治安だけは良かったのにその治安もパァ」「自公政権のお陰ですね」などのコメントのほか、「根拠がない」というコミュニティーノートの指摘もある。 検証対象の投稿が拡散するひと月ほど前にも、同様の投稿があった(2025年3月19日)。「フランスに入国しようとしたら優先自動ゲートが開かず、担当者に文句を言ったら『日本だけ撤廃した。向こうの中国人の列に並んで』と言われた」などという内容で「虚偽のポストの疑い」というコ

By 日本ファクトチェックセンター(JFC)
超高齢者の社会保障不正、戸籍制度がある日本ではあり得ない? 問題は日本でも【ファクトチェック】

超高齢者の社会保障不正、戸籍制度がある日本ではあり得ない? 問題は日本でも【ファクトチェック】

「トランプ政権が社会福祉コストを精査したら、記録上で200歳以上が数万人もいた。戸籍制度が完備してる日本ではあり得ない」などという言説がXで拡散しましたが、不正確です。トランプ氏が演説でふれた200超歳の高齢者の記録は1041人分。また、亡くなった人が戸籍上生存したままになっている「高齢者所在不明問題」は日本でも起きています。 検証対象 2025年4月24日、「トランプ政権でDOGEが社会福祉コストの精査を行ったら、記録上で200歳以上が数万人もいたという話は、戸籍制度が完備してる日本ではあり得ないこと」という投稿がXで拡散した。 投稿は2025年4月28日現在、1万回以上リポストされ、表示は308万件を超える。投稿には「母が亡くなった時戸籍を取り寄せたら、江戸時代末期まで遡った記録が送られてきて驚いた」「ほんと、そう。無くすべきではない」などのコメントのほか、「日本でも何年か前にそういう事ありましたよ」という指摘もある。 検証過程 トランプ氏「220~229歳が1039人」 第2次トランプ政権は、財政赤字の削減を目指し、社会保障費の削減に取り組ん

By 日本ファクトチェックセンター(JFC)
文京区の中学校はクラスの半分が中国人? 外国籍の生徒割合は約4%【ファクトチェック】

文京区の中学校はクラスの半分が中国人? 外国籍の生徒割合は約4%【ファクトチェック】

東京都文京区では中学校のクラスの半分が中国人だという情報が拡散していますが、誤りです。文京区教育委員会によると、文京区立中学校の外国籍生徒の割合は約4%です。 検証対象 2025年4月19日、「文京区では中学校のクラスの半分が中国人」という投稿が拡散した。 この投稿は1万件以上リポストされ、表示回数は124万回を超える。投稿について「都内は恐ろしい状況なんだ」「マジでやばいでしょ」というコメントの一方で「どこの中学校の話をされてるんですか?」という指摘もある。 検証過程 東京都文京区の人口は2025年4月1日現在、23万5380人(前月比298人増)。そのうち中国人を含む外国人全体の人口は1万5821人(前月比17人減)で6.7%だ(文京区「人口統計資料」)。 日本ファクトチェックセンター(JFC)は、文京区教育委員会学務課に取材した。 文京区内に10ある区立中学校の外国籍の生徒について、学務課学事係は「国別の人数は把握しておりません。外国籍生徒の総数は104人で、これは全生徒2,341人の約4%です(令和6年5月1日現在)。そのため、特定の国籍の

By 日本ファクトチェックセンター(JFC)

ファクトチェック講座

JFCファクトチェック講師養成講座 申込はこちら

JFCファクトチェック講師養成講座 申込はこちら

日本ファクトチェックセンター(JFC)は、ファクトチェックやメディア情報リテラシーに関する講師養成講座を月に1度開催しています。講座はオンラインで90分間。修了者には認定バッジと教室や職場などで利用可能な教材を提供します。 次回の開講は5月28日(日)午後2時~3時半で、お申し込みはこちら。 https://jfcyousei0518.peatix.com/view 受講条件はファクトチェッカー認定試験に合格していること。講師養成講座は1回の受講で修了となります。 受講生には教材を提供 デマや不確かな情報が蔓延する中で、自衛策が求められています。「気をつけて」というだけでは、対策になりません。最初から騙されたい人はいません。誰だって気をつけているのに、誤った情報を信じてしまうところに問題があります。 JFCが国際大学グロコムと協力して実施した「2万人調査」では実に51.5%の人が誤った情報を「正しい」と答えました。一般に思われているよりも、人は騙されやすいという事実は、様々な調査で裏打ちされています。 JFCではこれらの調査をもとに、具体的にどのよう

By 古田大輔(Daisuke Furuta)
理論から実践まで学べるJFCファクトチェック講座 20本の動画と記事を一挙紹介

理論から実践まで学べるJFCファクトチェック講座 20本の動画と記事を一挙紹介

日本ファクトチェックセンター(JFC)は、YouTubeで学ぶ「JFCファクトチェック講座」を公開しました。誰でも無料で視聴可能で、広がる偽・誤情報に対して自分で実践できるファクトチェックやメディアリテラシーの知識を学ぶことができます。 理論編と実践編の中身 理論編では、偽・誤情報の日本での影響を調べた2万人調査の紹介や、間違った情報を信じてしまう背景にある人間のバイアス、大規模に拡散するSNSアルゴリズムなどを解説しています。 実践編では、画像や動画や生成AIなど、偽・誤情報をどのように検証したら良いかをJFCが検証してきた事例から具体的に学びます。 JFCファクトチェッカー認定試験を開始 2024年7月29日から、これらの内容について習熟度を確認するJFCファクトチェッカー認定試験を開始します。誰でもいつでも受験可能です(2024年度中は受験料1000円、2025年度から2000円)。 合格者には様々な技能をデジタル証明するオープンバッジ・ネットワークを活用して、JFCファクトチェッカーの認定証を発行します。 JFCファクトチェッカー認定試験

By 古田大輔(Daisuke Furuta)
JFCファクトチェッカー認定試験  教材と申し込みはこちら

JFCファクトチェッカー認定試験  教材と申し込みはこちら

日本ファクトチェックセンター(JFC)はJFCファクトチェッカー認定試験を開始します。YouTubeで公開しているファクトチェック講座から出題し、合格者に認定証を授与します。 拡散する偽・誤情報から身を守るために 偽・誤情報の拡散は増える一方で、皆さんが日常的に使用しているSNSや動画プラットフォームに蔓延しています。偽広告や偽サイトへのリンクなどによる詐欺被害も広がっています。 JFCが国際大学グロコムと実施した2万人を対象とする調査では、実際に拡散した偽・誤情報を51.5%の割合で「正しいと思う」と答え、「誤っている」と気づけたのは14.5%でした。 自分が目にする情報に大量に間違っているものがある。そして、誰もが持つバイアスによって、それが自分の感覚に近ければ「正しい」と受け取る傾向がある。インターネットはその傾向を増幅する。 だからこそ、ファクトチェックやメディアリテラシーに関する知識が誰にとっても必須です。 JFCファクトチェック講座と認定試験 JFCファクトチェック講座(YouTube, 記事)は、2万人調査を元に偽・誤情報の拡散経路や

By 日本ファクトチェックセンター(JFC)